温泉地を歩いていると、「飲泉所」と書かれた湯口を見かけることがあります。ひしゃくやコップが置かれ、そこから湧き出るお湯を口にできる場所です。
一方で、浴室のシャワーや洗い場のカランには「この水は飲めません」という表示が貼られています。同じ施設の中で、飲んでいい温泉と飲んではいけない温泉が分かれているわけです。
この違いはどこから来るのでしょうか。答えは、飲泉が法律に基づく許可制だからです。
先に正直にお伝えしておくと、私は飲泉施設のある温浴施設で働いた経験がありません。そのため、この記事は現場の実感ではなく、環境省の温泉利用基準や温泉法の規定といった一次資料をもとに整理したものです。飲泉のルールがどう定められているのか、なぜ持ち帰りが禁止されるのかを、制度の面から解説します。
飲泉とは何か
飲泉(いんせん)とは、その名のとおり温泉を飲むことです。入浴による「浴用」に対して、「飲用」と呼ばれます。
古くからある温泉の利用法
日本では湯治の一環として、また海外でも療養の手段として、温泉を飲む文化が古くからありました。環境省の通知にも、温泉の飲用について多くの医治効能が期待できると記されています。
浴用と飲用では、期待される効果も異なります。療養泉には泉質ごとに適応症が定められていますが、浴用の適応症と飲用の適応症は別々に決められているのです。
たとえば含鉄泉は、浴用の泉質別適応症には定めがない一方、飲用では鉄欠乏性貧血が挙げられています。含よう素泉も浴用の定めはなく、飲用で高コレステロール血症が示されています。泉質ごとの詳細は温泉成分の種類一覧|泉質10種類の特徴・浴感・見分け方を完全解説にまとめています。
飲泉できる施設は限られている
ただし、飲泉ができる施設は決して多くありません。浴用の温泉施設は全国に無数にありますが、そのうち飲用の許可を得ているところはごく一部です。
理由は、後述するように飲用には浴用とは別の、より厳しい条件が課されるからです。
温泉は何でも飲めるわけではない
ここがこの記事でもっとも重要な点です。
「温泉なんだから飲んでも大丈夫だろう」という考えは、非常に危険です。
飲用には保健所の許可が必要
温泉法では、温泉を公共の浴用または飲用に供しようとする場合、都道府県知事または保健所設置市長の許可が必要と定められています。
重要なのは、浴用の許可と飲用の許可は別物だということです。入浴できる温泉施設であっても、飲用の許可を受けていなければ、その温泉を飲むことはできません。
また、温泉の成分が衛生上有害であると認められる場合は、許可されません。つまり飲泉所があるということは、その温泉が飲用に適すると行政に認められた証でもあるのです。
成分によっては飲用量に上限がある
環境省の「温泉利用基準」では、飲用に関して具体的な基準が定められています。
対象となる成分は、ひ素、銅、ふっ素、鉛、水銀、遊離炭酸の6種類です。これらを含む温泉水については、1日あたりの飲用総量と成分の総摂取量に上限が設けられています。
たとえばひ素であれば、1日の成分総摂取量を0.3mgまでとし、その温泉の含有量から逆算して飲める量が決まる、という仕組みです。温泉に含まれる成分は自然由来ですが、自然のものだから安全とは限らないということを示しています。
子どもは大人と同じ量を飲めない
年齢による区分も明確です。同基準では、15歳以下の子どもについて、大人を1とした場合の量が次のように定められています。
- 15歳〜8歳:大人の2分の1
- 7歳〜5歳:大人の3分の1
- 4歳〜3歳:大人の6分の1
- 2歳以下:大人の10分の1
さらに、平成26年の環境省通知では、15歳以下については原則的に飲用を避けることとされています(専門的知識を有する医師の指導を受ける場合は例外)。
「子どもにも体に良さそうだから飲ませよう」という判断は、基準に照らすと適切ではありません。
炭酸ガスを含む温泉には別の注意
遊離炭酸を含む温泉については、1回あたりの成分総摂取量を1,000mgまでとする基準があります。
これは、大量の炭酸を飲用で摂取すると「鉱泉酩酊(こうせんめいてい)」と呼ばれるお酒を飲んだような酔っ払った状態を引き起こすおそれがあるためです。環境省の通知でも、炭酸ガスを含有する温泉については、この点について十分な注意を促すよう求めています。
服薬中の方は事前に相談を
環境省の通知では、飲泉療養にあたっては専門的知識を有する医師の指導を受けること、服薬治療中の人は主治医の意見を聴くことが示されています。
温泉水に含まれる成分が、服用中の薬に影響する可能性は否定できません。持病がある方、薬を飲んでいる方は、自己判断せず必ず主治医に相談してください。
「飲まないでください」の表示がある理由
浴室のシャワーやカラン、脱衣所の洗面台に「この水(湯)は飲めません」という表示があるのを見たことがあると思います。

飲用の許可がないから
もっとも大きな理由がこれです。前述のとおり、飲用には別途の許可が必要です。許可を受けていない設備から出るお湯や水は、飲用を想定したものではありません。
環境省の基準でも、飲用に供する湯栓等は限定し、その場所を明確に表示することと定められています。裏を返せば、明示された飲泉所以外は飲む場所ではない、ということです。
循環している湯である可能性
浴槽のお湯や、そこから供給される湯は、多くの施設で循環ろ過されています。ろ過と塩素消毒によって衛生的に保たれてはいますが、それは入浴のための水質基準であって、飲用の基準ではありません。
循環している湯には、入浴者の汗や皮脂が混ざります。ろ過と消毒で処理されているとはいえ、飲むことを想定した水ではないのです。循環の仕組みは温泉のろ過と逆洗って何?|お湯をきれいに保つ仕組みを現場スタッフが解説をご覧ください。
配管や貯湯槽を通っている
シャワーやカランから出るお湯は、貯湯槽や長い配管を経由してきています。設備は適切に管理されていますが、それでも配管内部にはスケールが付着し、バイオフィルム(生物膜)が形成される可能性があります。
だからこそ環境省の通知は、飲泉について「決められた場所で、源泉を直接引いた新鮮な温泉を飲用すること」と明記しています。長い配管を通ってきた湯ではなく、源泉に近い新鮮な状態のものを飲むべき、という考え方です。
貯湯槽の衛生管理については温泉施設の貯湯槽と受水槽とは?、レジオネラ属菌のリスクについては温泉の「レジオネラ菌」って危険?もあわせてご覧ください。
表示は「守るべきルール」
「少しくらいなら」と口にしてしまう方もいるかもしれませんが、表示は施設が法令に基づいて掲げているものです。飲めない場所の湯は飲まない——これは基本的なマナーであり、自分の身を守る行動でもあります。
正しい飲泉の作法
では、飲泉が許可されている場所ではどう飲めばよいのでしょうか。環境省の通知に示された内容を整理します。
決められた場所で飲む
飲泉所として指定された場所以外では飲みません。施設内に飲泉所があっても、浴槽の湯を飲んでよいわけではありません。
掲示された量を守る
飲泉所には、飲用許容量や注意事項が掲示されています。環境省の基準では、「この容器で一回につき三杯まで」といった、利用者に分かりやすい方法で示すことも求められています。
1回の量については、一般に100〜150mL程度とされ、1日の総量にも目安が定められています。掲示を確認し、それを超えないようにしてください。
衛生的な容器を使う
環境省の通知では、自分専用または使い捨てのコップなど、衛生的なものを用いることとされています。
共用のひしゃくやコップが置かれている場所もありますが、感染症の観点からは、自分の容器を持参するか使い捨てのものを使うのが望ましいでしょう。口をつける行為である以上、入浴以上に衛生への配慮が必要です。
体調に不安があれば飲まない
効能に期待して無理に飲む必要はありません。体調がすぐれないとき、成分が自分に合うか不安なときは、飲まないという選択が最善です。
温泉の持ち帰りが禁止される理由
飲泉と関連して、もうひとつ知っておいていただきたいのが温泉水の持ち帰りについてです。
ペットボトルや容器を持参して、飲泉所の湯を汲んで帰りたい——そう考える方は少なくありません。しかし、多くの施設ではこれを禁止しています。
理由1:衛生上の問題
最大の理由がこれです。温泉水は、汲んだ瞬間から性質が変わり始めます。
環境省が「源泉を直接引いた新鮮な温泉を飲用すること」としているのは、裏を返せば時間が経った温泉水は飲用に適さないということです。容器に入れて持ち帰り、常温で置いておけば、細菌が繁殖する可能性があります。
そもそも温泉水には塩素消毒がされていないことも多く、水道水のような保存性はありません。「温泉だから腐らない」ということはないのです。
理由2:成分が変化する
温泉の成分は、空気に触れると変化します。
含鉄泉は鉄が酸化して赤褐色に変わり、含よう素泉は黄褐色に変色します。二酸化炭素泉は炭酸が抜け、硫黄泉は硫化水素が揮散していきます。温泉の濁度と色度とは?|白濁の正体と水質基準を現場スタッフが解説でも解説しているとおり、これは温泉の自然な性質です。
つまり、持ち帰った温泉水は湧きたてのものとは別物になっています。期待した成分がそのまま残っているとは限りません。
理由3:飲用許可の範囲外
飲用の許可は、その施設のその場所で飲むことを前提に与えられています。持ち帰って別の場所で飲む、家族に飲ませる、他人に配るといった行為は、許可の想定を超えています。
万一体調不良が起きた場合、施設の責任問題にもなりかねません。施設が持ち帰りを禁止するのは、利用者と施設の双方を守るためでもあります。
理由4:資源としての温泉
温泉は無限の資源ではありません。源泉の湧出量には限りがあり、温泉法でも温泉資源の保護が目的のひとつとされています。
一人が大量に持ち帰れば、他の利用者が使える量が減ります。「少しくらい」の積み重ねが、施設の運営や源泉の維持に影響することもあるのです。
持ち帰りたい場合は
どうしても持ち帰りたい場合は、必ず施設に確認してください。施設によっては、容量を決めて認めているところ、有料で販売しているところもあります。
また、温泉を製品として販売しているケースもあります。適切に処理・充填されたものであれば、保存性の面でも安心です。無断で汲むのではなく、正規の方法を選ぶのが確実です。
飲泉を見かけたら|利用者としての心得
整理すると、次の点を押さえておけば安心です。
飲めるのは飲泉所として明示された場所だけ。掲示された量と注意事項を守る。衛生的な容器を使う。子どもには飲ませない(15歳以下は原則避ける)。服薬中や持病がある場合は主治医に相談する。持ち帰りは施設に確認する。
そして何より、効能を期待して無理に飲まないことです。温泉の効能には個人差があり、体質によって合う合わないもあります。本記事は制度の解説であって、特定の効果を保証したり、飲泉を推奨したりするものではありません。健康上の判断については、必ず医師など専門家にご相談ください。
まとめ
飲泉とは温泉を飲むことで、浴用とは別に保健所の許可が必要な行為です。飲用の許可を受けた施設の、指定された飲泉所でのみ行えます。
温泉なら何でも飲めるわけではありません。ひ素、銅、ふっ素、鉛、水銀、遊離炭酸を含む温泉には飲用量の上限が定められており、15歳以下は原則として飲用を避けることとされています。炭酸を多く含む温泉では鉱泉酩酊への注意も必要です。
浴室のシャワーやカランに「飲めません」と表示があるのは、飲用の許可がないこと、循環している湯であること、配管や貯湯槽を経由していることが理由です。環境省も「源泉を直接引いた新鮮な温泉を」と明記しています。
そして持ち帰りが禁止されるのは、時間の経過で衛生状態が悪化すること、成分が変化して別物になること、許可の範囲を超えること、そして温泉が有限の資源であることが理由です。
温泉を飲むという行為は、入浴以上に慎重さが求められます。ルールを知ったうえで、正しく楽しんでいただければと思います。
参考文献
- 環境省「温泉の利用基準について」(昭和50年7月12日 環自企424号/浴用利用基準・飲用利用基準) https://www.env.go.jp/hourei/18/000013.html
- 環境省「温泉法第18条第1項の規定に基づく禁忌症及び入浴又は飲用上の注意の掲示等の基準」(環自総発第1407012号/平成26年7月1日) https://www.env.go.jp/nature/onsen/pdf/2-5_p_11.pdf
- 環境省「温泉法の概要」 https://www.env.go.jp/nature/onsen/outline/
- 環境省「温泉法に関する通知・ガイドライン等について」 https://www.env.go.jp/nature/onsen/docs/index.html
- 環境省「あんしん・あんぜんな温泉利用のいろは」
- 温泉法(昭和二十三年法律第百二十五号)|e-Gov法令検索 https://laws.e-gov.go.jp/law/323AC0000000125







