温泉に入ったとき、プールのような塩素の臭いがすると、がっかりした経験はありませんか?多くの温泉ファンは「塩素臭がする=質の悪い温泉」と考えがちです。
確かに、塩素消毒は温泉本来の香りや成分に影響を与えることがあります。しかし温泉施設で働いていると、塩素消毒が単純に「悪いもの」とは言い切れない現実が見えてきます。今回は、消毒と温泉の質の関係について、現場の視点から解説します。
なぜ温泉に塩素消毒が必要なのか
温泉施設で塩素消毒を行う最大の理由は、感染症の予防です。
レジオネラ症のリスク
特に警戒されているのが、レジオネラ属菌による感染症です。レジオネラ菌は自然界の水中に広く存在する細菌で、温泉のような温かい水環境で増殖しやすい特徴があります。
感染すると肺炎を引き起こし、高齢者や免疫力の低下した人では重症化や死亡例も報告されています。実際に、過去には温泉施設でのレジオネラ症集団感染が何度も発生しており、死者が出たケースもあります。
衛生基準は「条例」で決まる
厚生労働省が示している「公衆浴場における衛生等管理要領」は、循環式浴槽について次のように書いています。これは国から自治体への通知で、各都道府県がこれを踏まえて条例をつくる、という関係です。
- 遊離残留塩素濃度を頻繁に測定して、通常0.4mg/L程度を保ち、最大でも1mg/Lを超えないよう努めること
- レジオネラ属菌は検出されないこと(10CFU/100mL未満)
- 水質検査は、連日使用している(循環ろ過している)浴槽なら年2回以上。毎日完全に換水している浴槽は年1回以上、塩素以外の方法で消毒している場合は年4回以上
測定の回数については、要領にもマニュアルにも「頻繁に測定して」としか書かれていません。具体的に1日何回かを決めているのは条例と、各施設の管理要領です。 現場では、営業中に数時間おきに測って記録するのが一般的です。
つまり、循環式の温泉施設では塩素消毒が事実上義務付けられているのです。
これを怠ると、保健所からの指導や営業停止処分を受けることもあります。
循環式温泉で特に重要な理由
循環式の温泉は、同じお湯をろ過しながら繰り返し使用します。そのため、どうしても細菌が繁殖しやすい環境になります。
ろ過装置だけでは細菌を完全に除去できないため、塩素などの消毒剤で殺菌する必要があるのです。
塩素消毒が泉質に与える影響
では、塩素消毒は実際に温泉の質にどのような影響を与えるのでしょうか。
温泉成分の変質
塩素は強い酸化作用を持つため、温泉成分の一部を分解・変質させることがあります。特に影響を受けやすいのが次のような泉質です。
硫黄泉
硫黄成分が塩素と反応し、特有の香りが失われてしまいます。白濁した湯が透明になることもあります。
含鉄泉
鉄イオンが酸化され、茶褐色の色が薄くなったり、析出物の状態が変わったりします。
炭酸泉
炭酸ガスが揮発しやすくなり、シュワシュワとした感触が弱まることがあります。
香りと肌触りへの影響
塩素消毒を行うと、温泉本来の香り(硫黄臭、鉄臭など)が塩素臭にかき消されてしまいます。これが「プールみたい」と感じる原因です。
また、塩素によって肌のぬめり感やしっとり感が失われ、湯上がりの肌触りが変わることもあります。
影響の程度は濃度次第
ただし、これらの影響は塩素濃度によって大きく異なります。適正な濃度(0.4mg/L)であれば、影響は最小限に抑えられます。問題なのは、過剰に塩素を投入している場合です。塩素濃度が上がりすぎた場合には中和剤を使用するケースもあります。また機器の不良などによる、塩素濃度が上がらない場合のトラブルもあります。
塩素消毒の管理方法
現場では、塩素濃度を適切に管理することが重要な業務の一つです。
適正な塩素濃度
衛生等管理要領は、遊離残留塩素濃度を通常0.4mg/L程度に保つよう求めています。2021年7月の改正で、それまでの0.2mg/Lから引き上げられた数値です。
0.4mg/Lを大きく下回ると殺菌力が足りなくなり、逆に1mg/Lに近づくと塩素臭が強くなって、泉質への影響も大きくなります。要領が「最大1mg/Lを超えないよう努めること」としているのは、衛生と泉質のどちらも成り立つ幅がこのあたりだからです。
塩素濃度が高くなりすぎる原因
塩素臭が強い温泉には、次のような理由が考えられます。
①自動注入装置の設定ミス
自動で塩素を投入する装置の設定が適切でない場合、過剰投入になることがあります。
②有機物の多さ
入浴者の垢、汗、皮脂、整髪料などが多いと、それらを分解するために塩素が大量に消費されます。その結果、基準値を保つために追加投入が必要になり、塩素臭が強くなります。
③手動管理の難しさ
手作業で塩素を投入している施設では、入れすぎてしまうケースがあります。特に繁忙期は利用者が多く、こまめな調整が追いつかないこともあります。自動注入している場合はスイッチの切り替え忘れなどもあります。
次亜塩素酸ナトリウムの補充作業
多くの温泉施設では、次亜塩素酸ナトリウム(次亜塩素)を専用のタンクに入れて自動注入する方式を採用しています。しかし、この補充作業が意外と重労働です。
次亜塩素は通常、18リットルや20リットルの重いポリタンクで納品されます。これを機械室や設備室まで運び、専用タンクに注ぎ入れる作業は、1人で行うとかなりの負担になります。特に階段を上り下りする必要がある施設では、さらに大変です。
また、次亜塩素は強いアルカリ性の薬品なので、取り扱いにも注意が必要です。皮膚に付着すると炎症を起こすため、手袋やゴーグルを着用しながらの作業になります。
こうした地味で重労働な作業が、温泉の衛生を守るために日常的に行われているのです。
測定と記録の重要性
温泉施設では、営業中に塩素濃度を繰り返し測定して記録します。何時に何回測るかは条例と施設ごとの管理要領で決まっていて、全国一律のルールがあるわけではありません。記録は後から検査や事故があったときに、そのときの管理状態を証明できる唯一の材料になるので、現場では測定そのものと同じくらい記録が重視されます。
適切な濃度管理ができているかは、この測定記録を見れば一目瞭然です。
塩素を使わない(または最小限にする)方法
では、塩素消毒を避ける方法はないのでしょうか。いくつかの選択肢があります。
①完全かけ流し
常に新しい温泉を注ぎ、使用済みのお湯を循環させない「完全かけ流し」であれば、基本的に塩素消毒は不要です。お湯が常に入れ替わるため、細菌が繁殖する余地がないからです。
ただし、これには十分な湧出量が必要で、すべての施設で実現できるわけではありません。また、水資源の観点からも限界があります。
②オゾン殺菌
オゾンガスによる殺菌方法です。塩素と違って温泉成分への影響が少なく、臭いも残りません。
デメリットは、設備導入に数百万円かかることと、ランニングコストも高いことです。そのため、導入できる施設は限られています。
③紫外線殺菌
紫外線を照射してレジオネラ菌などを不活化する方法です。こちらも温泉成分への影響は最小限です。
ただし、紫外線だけでは完全な殺菌は難しく、塩素との併用が推奨されるケースが多いです。
④モノクロラミン殺菌
最近ではモノクロラミンも浴槽水消毒として認められるようになりました。塩素では高い㏗、鉄分や硫黄を含む温泉で効きが不安定になりやすいため採用されるようになったという背景があります。塩素を使用しないことで、塩素臭さが抑えられるメリットがあります。
⑤頻繁な換水と清掃
毎日または数日おきに浴槽のお湯を全部入れ替え、徹底的に清掃する方法です。物理的に細菌を除去するため、塩素の使用量を減らせます。
しかし、これには多大な労力とコストがかかり、小規模な施設でないと現実的ではありません。
それぞれのコストと実現可能性
結局のところ、塩素消毒は最もコストパフォーマンスが良い衛生管理方法です。設備費用も安く、管理も比較的簡単だからです。
他の方法はより理想的ですが、導入コストや運用コストが高く、すべての施設が選択できるわけではありません。
利用者として知っておきたいこと
温泉を選ぶ際、塩素消毒についてどう考えればよいでしょうか。
塩素臭が強い=管理が悪いとは限らない
塩素の臭いが強いからといって、その施設の衛生管理が悪いとは限りません。むしろ、きちんと消毒している証拠とも言えます。
逆に、塩素臭がまったくしない循環式温泉は、消毒が不十分な可能性もあります。これはレジオネラ症のリスクを高めるため、むしろ危険です。
「塩素消毒なし」表示の見方
温泉成分表示に「消毒なし」と書かれている場合、それは完全かけ流しか、代替の殺菌方法(オゾンや紫外線)を使用している可能性が高いです。
ただし、時間帯や季節によって運用が変わる施設もあるため、気になる場合は直接確認するのが確実です。
本当に気にすべきは衛生管理の総合力
大切なのは、塩素の有無だけでなく、施設全体の衛生管理レベルです。
- 浴槽や床が清潔に保たれているか
- 脱衣所やトイレの清掃が行き届いているか
- 湯温や塩素濃度の測定記録が掲示されているか
- 定期的なレジオネラ検査を実施しているか
こうした総合的な視点で、安心して入浴できる施設かどうかを判断しましょう。
まとめ
塩素消毒は、確かに温泉の香りや成分に影響を与えることがあります。しかし、それは感染症を防ぐための必要な措置でもあります。
現場の現実:
- 循環式温泉では法律で塩素消毒が義務付けられている
- レジオネラ症などの感染リスクを防ぐために不可欠
- 適切な濃度管理をすれば、影響は最小限に抑えられる
理想と現実のバランス:
- 完全かけ流しやオゾン殺菌は理想的だが、コストや設備の問題で実現困難な施設も多い
- 塩素消毒は最もコストパフォーマンスの良い衛生管理方法
利用者の視点:
- 「塩素=悪」という単純な判断は避ける
- 衛生管理と泉質のバランスを理解した上で温泉を選ぶ
- 塩素臭の有無だけでなく、施設全体の清潔さや管理状況を見る
完璧な温泉は存在しません。衛生と泉質のトレードオフを理解し、現場の努力を知った上で温泉を楽しむ。それが、賢い温泉の選び方だと思います。
参考文献
- 厚生労働省 「レジオネラ対策のページ」
- 厚生労働省「循環式浴槽におけるレジオネラ症防止対策マニュアル」(令和元年12月17日改正・薬生衛発1217第1号) https://www.mhlw.go.jp/content/11130500/001402079.pdf
- 厚生労働省 「公衆浴場における衛生等管理要領等について」(令和元年9月19日)
- 厚生労働省 「入浴施設の衛生管理の手引き」(令和4年5月13日)












