温浴施設で働いていると、避けられない対応のひとつが嘔吐物(吐瀉物)の処理です。浴室で、脱衣所で、あるいは休憩処で——お客様が吐いてしまう場面は、決して珍しいことではありません。
この対応は、単に「片付ける」だけでは済みません。原因によって声のかけ方も変わりますし、感染性胃腸炎が疑われる場合は、処理を誤ると施設全体に感染を広げてしまうおそれがあります。とくに冬場のノロウイルスは、対応の手順ひとつで結果が大きく変わります。
この記事では、温浴施設の現場スタッフの視点から、浴室や脱衣所で嘔吐が起こる要因、状況別の対処、ノロウイルスを想定した処理手順、そして消毒に使う次亜塩素酸ナトリウムの希釈方法までを整理します。施設運営に携わる方や、これから現場に立つ方の参考になればと思います。
なぜ浴室や脱衣所で嘔吐が起こるのか
嘔吐の背景はひとつではありません。原因によって、対応の優先順位も変わってきます。
のぼせ・湯あたりによるもの
もっとも多いのが、長湯やサウナの入りすぎによる体調不良です。熱い湯に長く浸かると体温が上がり、めまいや吐き気を伴うことがあります。とくに脱衣所は、浴室から出て一気に環境が変わる場所で、立ち上がったタイミングで気分が悪くなる方が多い印象です。のぼせや湯あたりについては、温泉でのぼせるとは?と温泉の湯あたりとは?で詳しく解説しています。
脱水・熱中症によるもの
汗をかいたまま水分をとらずに入浴を続けると、脱水状態に近づきます。夏場やサウナ利用時にはとくに注意が必要で、吐き気は熱中症のサインである場合もあります。この場合は、まず体調への対応が優先されます。サウナや岩盤浴での水分補給については、温泉の岩盤浴とは?|サウナとの違い・入り方・水分補給のコツを現場スタッフが解説でも触れています。
飲酒によるもの
飲酒後の入浴は、それ自体が体に負担をかけます。館内で飲酒できる施設では、食事処でお酒を飲んだあとに入浴し、気分が悪くなるケースが起こります。酔ったまま浴室に入ることのリスクは、施設として掲示や声かけで注意喚起している部分です。
感染性胃腸炎によるもの
そして、もっとも警戒すべきなのがノロウイルスなどによる感染性胃腸炎です。ノロウイルスは冬季の感染性胃腸炎の原因となるウイルスで、感染力が非常に強く、少量のウイルスでも感染が成立します。来館時は元気でも、館内で急に症状が出ることがあります。
その他の疾患・体質によるもの
持病や体質、妊娠中の体調変化など、入浴と直接関係のない要因で吐いてしまう場合もあります。原因を決めつけず、まずは体調を気にかける姿勢が大切です。
原因を問わず「まず感染性を想定する」
ここが現場対応の要点です。嘔吐物を見て、それがのぼせによるものか、感染性胃腸炎によるものかを、その場で見分けることはできません。
だからこそ、すべての嘔吐物を「感染性の可能性がある」ものとして扱うのが原則です。「お酒を飲んでいたから大丈夫だろう」といった判断はせず、常に最も厳しい前提で処理する。これが結果的に、施設と他のお客様を守ります。
対応の基本手順
実際の流れを、順を追って整理します。
1. お客様の体調確認を最優先に
まず人です。倒れていないか、意識があるか、動けるかを確認します。ふらついている場合は座らせ、涼しい場所へ誘導します。症状が重い、意識がはっきりしないといった場合は、ためらわず救急要請を検討してください。判断に迷うときは、迷ったほうへ動くのが安全です。
2. 立ち入り制限をかける
嘔吐物の周囲は、ほかのお客様が近づかないよう区切ります。嘔吐時は腹圧がかかって上から床面に落ちるため吐物が飛散するので、目に見えない飛散を考えて半径約2メートル以内を汚染区域として消毒範囲に含めます。思っているより広い範囲が汚染されていると考えるのが安全です。
3. 換気を確保する
ここは見落とされがちですが、非常に重要です。床などに残った嘔吐物が時間とともに乾燥すると、ノロウイルスが空中を漂い、これを吸い込むことによっても感染します。つまり、乾燥させないことと、空気を入れ替えることの両方が必要です。
処理中は窓を開ける、換気設備を稼働させるなどして空気を動かします。浴室のような密閉性の高い空間では、換気の重要性がさらに増します。浴室の換気設備については、温泉における換気の重要性とは?|カビ・サビ対策の材質、モヤによる視界不良と転倒リスクを現場スタッフが解説もあわせてご覧ください。
4. 防護具を着用する
使い捨て手袋、マスク、可能ならエプロンやガウン、シューズカバーを着用します。手袋は二重にしておくと、処理途中で外側だけを外せて衛生的です。素手での処理は絶対に避けてください。
5. 嘔吐物を覆って拭き取る
ペーパータオルを吐物に密着させてウイルスの浮遊を防ぎ、乾燥させないようにします。そのうえで、覆っていたペーパータオルで外側から内側に向かって拭き取り、ビニール袋に入れて密閉します。外から内へ拭くのは、汚染を広げないためです。
6. 消毒する
拭き取ったあと、次亜塩素酸ナトリウムの希釈液で消毒します。濃度と使い方は次の章で詳しく説明します。
7. 廃棄と手洗い
使用したペーパー、手袋、防護具はすべてビニール袋に入れて密閉して廃棄します。処理後は石けんで丁寧に手を洗います。処理後の床は、通常の清掃とは別に消毒まで行う必要があります。日常の清掃作業については温泉施設の清掃はどうやっているの?|ポリッシャー・高圧洗浄・換水作業まで現場スタッフが解説をご覧ください。
次亜塩素酸ナトリウムの作り方
ノロウイルスの消毒には、次亜塩素酸ナトリウムを使います。アルコールでは力不足で、次亜塩素酸ナトリウムという薬品を使う必要があります。消毒用エタノールや逆性石鹸が用いられることがありますが、ノロウイルスを完全に失活化する方法としては次亜塩素酸ナトリウムや加熱による処理が挙げられます。
目的で濃度を使い分ける
大切なのは、用途によって濃度を変えることです。
- 嘔吐物・便の処理:0.1%(1,000ppm)
- ドアノブ・手すり・床など環境の消毒:0.02%(200ppm)
調理器具や衣類、トイレなどの消毒に用いる場合には0.02%に、嘔吐物や便の処理に使用する場合には0.1%に薄めて使用します。嘔吐物そのものはウイルス量が多いため、濃い濃度が必要になります。
市販の塩素系漂白剤からの作り方
市販の塩素系漂白剤(ハイターなど)の原液濃度は約5%のものが一般的です。ただし市販品は1〜12%など製品により濃度が異なるので、使用前に確認が必要です。
原液5%の製品を使う場合の目安は次のとおりです。
0.1%(1,000ppm)を作る場合
原液を水で50倍に薄めます。500mlのペットボトルなら、原液10ml(ペットボトルのキャップ約2杯分)に水を加えて500mlにします。2リットル作る場合は、原液40mlに水を加えて2リットルにします。
0.02%(200ppm)を作る場合
原液を水で250倍に薄めます。500mlなら原液2ml、2リットルなら原液8mlが目安です。
自施設で使っている薬剤の原液濃度は必ず確認してください。濃度が違えば必要量も変わります。温浴施設では業務用の次亜塩素酸ナトリウム(6%など)を常備していることも多いので、その場合は製品の濃度に応じて計算します。
取り扱いの注意
希釈液は時間が経つと効果が落ちるため、使うたびに作るのが基本です。作り置きはしません。また、酸性の洗剤と混ざると有害なガスが発生する危険があるため、絶対に混ぜないでください。金属を腐食させる性質があるので、金属面に使った場合は後で水拭きします。
作業時は手袋を着用し、換気のよい状態で扱います。塩素系薬剤の取り扱いについては、温泉の塩素濃度を抑える中和剤とは?|塩素が上がりすぎたときの投入タイミングを現場スタッフが解説でも触れています。
浴槽内で嘔吐された場合
もっとも対応が重いのが、浴槽の中で吐かれてしまったケースです。この場合、拭き取りでは済みません。
まず浴槽の使用を停止し、お客様を上がらせます。そのうえで、浴槽水の排水、清掃、消毒が必要になります。これは予定外の緊急換水にあたる作業で、その日の営業計画は大きく崩れることになります。換水の考え方については温泉の換水とは?|法令で決まる頻度と緊急換水の判断基準で詳しく解説しています。
循環式の浴槽では、ろ過器や配管を通ってウイルスが循環するおそれがあるため、設備側の対応も検討します。お湯がどのように循環しているかは温泉のろ過と逆洗って何?|お湯をきれいに保つ仕組みを現場スタッフが解説をご覧いただくと、なぜ配管まで考える必要があるのかが分かりやすいと思います。判断に迷う場合は、管轄の保健所に相談するのが確実です。営業への影響は大きいですが、感染拡大を防ぐことが最優先です。
なお、浴槽内で排せつがあった場合も、基本的な考え方は同じです。詳しい対応は温泉の浴槽で排泄物が…!衛生面は大丈夫?|現場スタッフが教える実際の対応手順にまとめています。
日々の浴槽の衛生管理については、温泉施設の水質管理は毎日何をしている?|残留塩素・pH・温度チェックの現場を公開もあわせてご覧ください。
事前の備えが対応を左右する
嘔吐対応は、起きてから道具を探していては手遅れです。多くの施設では、必要な物品をまとめた「嘔吐物処理セット」を用意しています。
使い捨て手袋、マスク、エプロン、ペーパータオル、ビニール袋、次亜塩素酸ナトリウム原液、計量用のカップ、専用の空ボトル——これらをひとまとめにして、浴室と脱衣所の近くに常備しておきます。夜間や少人数の時間帯でも、誰でも同じ手順で動けるように、手順書を添えておくとより確実です。
また、スタッフ間で手順を共有し、実際に一度練習しておくことも有効です。緊急時に迷わず動けるかどうかは、事前の準備で決まります。
なお、こうした緊急時の対応体制や記録の整備状況は、保健所の立入検査でも確認されるポイントです。「いつ、どこで、どう対応したか」を記録に残しておくことは、衛生管理上も行政対応上も重要になります。立入検査で見られる点は保健所の立入検査とは?|温泉施設で見られるポイントを現場スタッフが解説にまとめています。
まとめ|「感染性を想定して、換気しながら、正しい濃度で」
温浴施設での嘔吐は、のぼせ、脱水、飲酒、感染性胃腸炎など、さまざまな要因で起こります。その場で原因を見分けることはできないため、すべてを感染性の可能性があるものとして扱うのが現場の原則です。
対応の柱は3つ。お客様の体調確認を最優先にすること、飛散範囲を広くとり換気を確保しながら処理すること、そして嘔吐物処理には0.1%、環境消毒には0.02%の次亜塩素酸ナトリウムを正しく作って使うことです。アルコールでは不十分だという点も、忘れてはいけません。
誰も好んで対応したい仕事ではありませんが、ここを丁寧にやることが、施設全体の安全を守ります。備えを整えて、落ち着いて動けるようにしておきましょう。なお、体調不良のお客様への対応で判断に迷う場合は、無理に自施設で抱え込まず、医療機関や保健所といった専門機関に相談することをおすすめします。
参考文献
- 厚生労働省「ノロウイルスに関するQ&A」 https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/kenkou_iryou/shokuhin/syokuchu/kanren/yobou/040204-1.html
- 厚生労働省「感染性胃腸炎(特にノロウイルス)」 https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/kenkou_iryou/kenkou/kekkaku-kansenshou/norovirus.html
- 厚生労働省「公衆浴場における衛生等管理要領等について」 https://www.mhlw.go.jp/topics/2001/0111/tp1106-1.html
- 厚生労働省「公衆浴場における衛生等管理要領等の改正について(令和元年9月19日)」
- 厚生労働省「レジオネラ症を予防するために必要な措置に関する技術上の指針」 https://www.mhlw.go.jp/topics/bukyoku/kenkou/legionella/030725-1.html












