ある日の営業中、突然すべての照明が消えました。
浴室も、脱衣所も、フロントも、真っ暗。数秒後に非常灯がぼんやりと点きましたが、館内はざわつき、浴室からは「何が起きたの?」という声が次々と聞こえてきました。
温浴施設での停電。実際に経験すると、想像以上に緊張します。
一般的な建物の停電とは違い、温浴施設では「お客様が裸でいる」「浴室が暗闇になる」「設備が止まる」という特有のリスクが重なります。ろ過装置が止まり、ボイラーが止まり、塩素の自動注入も止まる。お客様の安全確保と設備の復旧を同時に進めなければならない、現場にとっては最も慌ただしいトラブルの一つです。
この記事では、温浴施設で停電が起きたときに何が起きるのか、施設側はどう動くのか、そしてお客様としてどう行動すべきかを、実際に停電を経験したスタッフの視点からお伝えします。
停電すると施設で何が起きるのか
まず、停電が発生した瞬間に施設内で何が起きるかを整理します。
照明がすべて消える
当然ですが、館内の照明がすべて消えます。数秒〜数十秒で非常用照明(バッテリー式)が自動点灯しますが、非常灯の明るさは通常の照明とは比べものになりません。
特に浴室は窓が小さいか、まったくない構造が多いため、昼間でもほぼ真っ暗になります。濡れた床、段差、散乱した桶や椅子——これらが見えない状態は非常に危険です。
サウナ室は完全な暗闘になります。窓がなく密閉された高温空間で照明が消えるのは、お客様にとって相当な恐怖です。
ろ過装置・循環ポンプが停止する
停電の瞬間、循環式浴槽の心臓部であるろ過装置と循環ポンプが停止します。
これは「浴槽水の浄化と消毒が完全にストップした」ことを意味します。ろ過による物理的な汚れの除去が止まり、塩素の自動注入も止まります。停電が長引けば、塩素濃度が徐々に低下し、レジオネラ菌をはじめとする細菌の繁殖リスクが高まっていきます。
実際に停電を経験したとき、真っ先に頭に浮かんだのは「ろ過が止まった」ということでした。お客様の安全確保と同時に、水質がどれだけ持つかという時間との勝負が始まります。
ボイラーが停止する
加温に使うボイラーも停止します。ガスボイラーの場合、安全装置が作動してガスの供給が自動的に遮断されます。
ボイラーが止まっても、浴槽のお湯がすぐに冷めるわけではありません。ただし、冬場の露天風呂は外気温の影響で温度が下がりやすく、長時間の停電では「ぬるくなった」と感じるレベルまで低下することがあります。
自動ドア・券売機・精算機が動かなくなる
フロント周りも影響を受けます。自動ドアが開かなくなり、券売機や精算機が使えなくなります。入館処理や退館処理ができず、お客様をお待たせすることになります。
換気が止まる
見落としがちですが、換気扇やエアコンも停止します。
浴室は湿度が高い空間なので、換気が止まると蒸気がこもります。サウナ室は換気が止まっても室温がすぐには下がりませんが、空気の循環が止まることで酸素濃度が低下するリスクがあります。
館内放送ができなくなる場合がある
館内放送設備が非常用電源に接続されていない施設では、放送によるお客様への案内ができなくなります。停電時にこそ放送で冷静な行動を呼びかけたいのに、その手段が使えないのは痛手です。
施設側の対応——停電発生直後
停電が発生した瞬間から、スタッフは複数の対応を同時に進めます。
お客様の安全確保が最優先
何よりも先に、お客様の安全を確認します。
浴室担当のスタッフは、懐中電灯を持って浴室に向かい、「停電が発生しました。足元にお気をつけください。その場で動かずにお待ちください」と大きな声で案内します。館内放送が使えない場合は、肉声とメガホンが頼りです。
サウナ室のお客様には、すぐにサウナ室から出ていただくよう案内します。停電中のサウナ室は照明がなく、換気も止まっている状態です。室温自体はしばらく高いまま維持されるため、閉じ込められるとのぼせや熱中症のリスクがあります。
浴室内で転倒してけがをしたお客様がいないか、体調を崩している方がいないかを確認して回ります。暗い浴室でスタッフが懐中電灯で足元を照らしながら巡回する——停電時の浴室は、そんな光景になります。
非常用照明と懐中電灯の確認
非常用照明が正常に点灯しているかを確認します。バッテリーの持続時間は一般的に30分〜1時間程度なので、停電が長引く場合は懐中電灯やランタンで補う必要があります。
防水タイプの懐中電灯を浴室の各所に配置しておくのが理想ですが、実際にはそこまで準備できている施設ばかりではありません。スタッフが手持ちの懐中電灯で照らしながら、お客様を安全な場所に誘導するのが現実的な対応です。
停電の原因と復旧見込みの確認
並行して、停電の原因を確認します。
施設内のブレーカーが落ちただけなのか、地域全体の停電なのか。ブレーカーであれば自分たちで復旧できますが、地域停電であれば電力会社の対応を待つしかありません。
電力会社の停電情報(ウェブサイトや電話)で復旧見込みを確認し、お客様に伝えます。「いつ復旧するかわからない」という状況が一番不安を煽るため、わかる範囲の情報を誠実に伝えることが大切です。
施設側の対応——停電が続く場合
数分で復旧すれば大きな問題にはなりませんが、停電が30分、1時間と長引く場合は、追加の対応が必要になります。
入浴の中止と退浴の案内
停電が長引く見込みであれば、入浴を中止し、お客様に浴室から脱衣所に移動していただきます。
暗い浴室から脱衣所までの移動は、スタッフが懐中電灯で足元を照らしながら誘導します。段差、排水溝の蓋、洗い場の椅子など、つまずきやすい箇所を「ここに段差があります」と声で伝えながら進みます。
フロントでの対応
券売機や精算機が動かないため、退館処理は手作業(入館精算の場合は不要の場合もありますが)で行います。入館時の記録と照合しながら、手計算で精算するか、「本日は精算不要です」と判断するか——施設の方針によりますが、混乱を最小限にする対応が求められます。
自動ドアが動かない場合は、手動で開放するか、非常口から退館していただきます。
水質管理の判断
ここが施設管理上、最も重要な判断です。
ろ過装置と塩素の自動注入が止まった状態がどれだけ続いたかによって、営業再開の手順が変わります。
短時間(30分程度)の停電であれば、復旧後に塩素濃度とORPを確認し、基準値を満たしていれば営業を再開できます。
長時間(数時間以上)の停電の場合は、塩素濃度が大幅に低下している可能性があります。この場合は、浴槽水の塩素濃度を再調整するか、場合によっては換水(お湯の入れ替え)を行ってから営業を再開します。
判断に迷う場合は、安全側に倒して換水を行うのが原則です。「たぶん大丈夫だろう」で営業を再開して、万が一レジオネラ菌が繁殖していたら取り返しがつきません。
ボイラーの再起動
電力が復旧しても、ボイラーはスイッチを入れればすぐに動くわけではありません。安全装置が作動してガスが遮断されているため、ガスメーターの復帰操作が必要です。
ボイラーの再起動には安全確認の手順があり、焦って操作するとエラーが出て余計に時間がかかることがあります。復旧後に「お湯が適温に戻るまで○分ほどかかります」とお客様に案内することもあります。
営業再開か、臨時休業か
停電の時間帯や復旧後の状況によって、営業を再開するか臨時休業とするかを判断します。
閉店間際の停電であれば、そのまま閉店に切り替えることもあります。日中の停電で復旧後に時間が十分残っていれば、水質を確認した上で営業を再開します。
設備の故障が見つかった場合(ろ過装置のポンプが停電のショックで故障した、など)は、修理が完了するまで臨時休業とせざるを得ません。
お客様側の対応——停電が起きたら
ここからは、温浴施設で停電に遭遇した場合に、お客様としてどう行動すべきかをお伝えします。
まず、その場で動かない
停電の瞬間、最も危険なのは慌てて動くことです。
暗闘の浴室で走ったり、急いで移動しようとすると、濡れた床で滑って転倒するリスクが非常に高いです。まずはその場でしゃがみ、非常灯が点くのを待ってください。
サウナ室にいたらすぐに出る
サウナ室にいた場合は、壁伝いにドアを探して、できるだけ早くサウナ室から出てください。停電でも室温はすぐには下がりませんが、換気が止まっているため、長居は危険です。
ドアが見つからない場合は、大きな声で助けを求めてください。スタッフが駆けつけます。
スタッフの指示に従う
停電時は、スタッフが懐中電灯で巡回し、声かけと誘導を行います。「足元にお気をつけください」「こちらに移動してください」という指示に従って、ゆっくりと移動してください。
自己判断で行動するよりも、施設の構造を把握しているスタッフの案内に従う方が安全です。
無理に着替えようとしない
停電直後に暗い脱衣所で急いで着替えようとすると、ロッカーの角にぶつけたり、他のお客様と衝突したりする可能性があります。
非常灯が点いて周囲が見える状態になってから、落ち着いて着替えましょう。タオルを体に巻いた状態で待機するのが安全です。
スマートフォンのライトを活用
脱衣所のロッカーにスマートフォンを入れている場合、ライト機能を使って足元を照らすことができます。ただし、浴室内にスマートフォンを持ち込んでいないケースがほとんどなので、浴室内では使えません。
脱衣所にたどり着いたら、スマートフォンのライトで周囲を確認し、落ち着いて荷物をまとめましょう。
復旧を待つか、退館するか
短時間で復旧しそうな場合は、ロビーや休憩スペースで待機するのも選択肢です。スタッフが復旧見込みを案内してくれるはずです。
長引きそうな場合や、これ以上待てない場合は、スタッフに声をかけて退館しましょう。精算については、施設側が柔軟に対応してくれるケースがほとんどです。
停電後の営業再開——裏で何をしているか
電力が復旧しても、施設はすぐには営業を再開できません。裏側ではこんな作業が行われています。
全設備の再起動と動作確認
ろ過装置、循環ポンプ、ボイラー、塩素注入装置、空調、換気扇、照明、券売機、自動ドア——すべての設備を順番に再起動し、正常に動作するかを確認します。
停電のショック(瞬間的な電圧変動)でポンプのモーターや制御基板が故障していることもあるため、一つずつ確認しながら慎重に進めます。

水質の確認
浴槽水の残留塩素濃度とORPを測定します。停電中に塩素濃度がどこまで低下したかを確認し、基準値を下回っている場合は塩素を追加投入して調整します。
長時間の停電後は、塩素を投入してからろ過装置を一定時間稼働させ、浴槽水全体に塩素が行き渡ったことを確認してから営業を再開します。
浴槽温度の確認
ボイラー停止中に浴槽温度が低下している場合は、適温に戻るまで加温を行います。大きな浴槽ほど温度の回復に時間がかかり、冬場は特に時間を要します。
館内の安全確認
停電の衝撃で棚の上のものが落下していないか、ガラスにひびが入っていないか、水漏れが発生していないかを館内巡回で確認します。
記録の作成
停電の発生時刻、復旧時刻、原因、停電中の対応内容、設備の被害状況、塩素濃度の測定結果——これらを記録として残します。保健所の立入検査で確認される可能性がある資料にもなります。
停電に備えて施設ができること
非常用電源(UPS・発電機)の導入
無停電電源装置(UPS)や自家発電機を導入している施設もあります。UPSは停電の瞬間に自動で切り替わるため、照明や最低限の設備を維持できます。
ただし、UPSでろ過装置やボイラーまでカバーするには大容量が必要で、コストが大きくなります。多くの施設では、非常用照明と最低限の電源のみをUPSでカバーしているのが現状です。
懐中電灯・ランタンの備蓄
防水タイプの懐中電灯を、浴室、脱衣所、機械室、フロントにそれぞれ常備しておきます。電池切れを防ぐために、定期的に点検する習慣も大切です。
停電対応マニュアルの整備と訓練
停電時の対応手順をマニュアル化し、全スタッフに共有しておきます。「誰が浴室に行くか」「誰がブレーカーを確認するか」「誰がお客様に案内するか」——役割分担を事前に決めておくことで、停電時のパニックを防げます。
定期的に停電を想定した訓練を行い、実際に暗闘の中で動く経験をしておくことも重要です。訓練と実際では緊張感がまったく違いますが、「一度やったことがある」という経験の有無は大きいです。
館内放送設備の非常用電源接続
館内放送設備を非常用電源に接続しておけば、停電時でもお客様に案内を届けることができます。肉声だけでは館内全体に伝わらないため、放送設備が使えるかどうかは対応の質を大きく左右します。
お客様が事前にできること
非常口の位置を確認しておく
温泉施設に入ったら、非常口の位置をさっと確認する習慣をつけましょう。特に浴室から脱衣所への動線、脱衣所から館外への出口を把握しておくと、停電時に冷静に動けます。
脱衣所のロッカーの位置を覚えておく
真っ暗な脱衣所で「自分のロッカーがどこかわからない」となるとパニックにつながります。ロッカー番号を覚えておくのはもちろん、「入口から3列目の上段」というように位置を記憶しておくと、暗闇でも手探りでたどり着けます。
タオルは手の届く場所に
浴室にいるときは、タオルを手の届く場所に置いておきましょう。停電時に体を拭いたり、足に巻いてガラス片から守ったり、体を覆ったりと、タオルは万能の非常用グッズになります。
まとめ
温浴施設での停電は、照明が消えるだけでなく、ろ過装置・循環ポンプ・ボイラー・塩素注入装置・換気・券売機——あらゆる設備が同時に停止するトラブルです。
施設側は、お客様の安全確保(特に暗闘の浴室とサウナ室からの避難誘導)を最優先に、停電原因の確認、設備の再起動、水質の確認を進めます。長時間の停電後は、塩素濃度とORPを測定し、基準値を満たしたことを確認してから営業を再開します。
お客様としては、まずその場で動かないこと。サウナ室からはすぐに出ること。スタッフの指示に従って移動すること。この3つを覚えておいてください。
停電は予告なく起きます。施設側は非常用電源、懐中電灯の備蓄、停電対応マニュアルの整備で備え、お客様は非常口とロッカーの位置を確認しておく。お互いの備えが、万が一のときの安全を守ります。
【温泉施設の災害対応まとめ|地震・台風・停電・火災、裸のときにどう動く?】
【参考文献】
・総務省消防庁「防災マニュアル——震災対策啓発資料」 https://www.fdma.go.jp/ ※停電時の行動指針(その場で動かない、非常口の確認、懐中電灯の備蓄)
・経済産業省「停電時の安全確保について」 ※停電時の電気設備の取り扱い、復旧時のブレーカー操作手順
・建築基準法施行令第126条の5 ※不特定多数が利用する施設における非常用照明の設置義務、バッテリー式非常灯の持続時間基準(30分以上)
・消防法施行規則第28条の3 ※誘導灯・非常用照明の設置基準
・一般社団法人 日本ガス協会「地震・停電時のガスの安全対策」 https://www.gas.or.jp/ ※マイコンメーターによる自動遮断の仕組み、停電復旧後のガスメーター復帰操作手順
・一般社団法人 日本ボイラ協会「ボイラーの安全管理」 https://www.jbanet.or.jp/ ※停電時のボイラー緊急停止と再起動の安全確認手順
・厚生労働省「循環式浴槽におけるレジオネラ症防止対策マニュアル」 https://www.mhlw.go.jp/content/11130500/000712875.pdf ※循環ポンプ・ろ過装置の停止時における水質管理の考え方、営業再開前の残留塩素濃度・ORP確認手順
・厚生労働省「公衆浴場における衛生等管理要領等の改正について」(令和2年12月) https://www.mhlw.go.jp/content/11130500/000712873.pdf ※遊離残留塩素濃度の管理基準(0.2〜0.4mg/L以上)
・国立感染症研究所「レジオネラ症 factsheet」 https://www.niid.go.jp/niid/ja/kansennohanashi/477-legionella.html ※塩素濃度が低下した環境でのレジオネラ属菌の増殖条件
・公益社団法人 日本サウナ・スパ協会「温浴施設の安全管理指針」 https://www.sauna.or.jp/ ※サウナ室の換気基準、停電時のサウナ室からの退避
・内閣府「事業継続ガイドライン」 https://www.bousai.go.jp/kyoiku/kigyou/keizoku/sk.html ※停電を含むインフラ障害時の事業継続計画(BCP)の考え方、記録の保存









